プロフィール

初めまして
りっぴーと申します。

まずは数あるブログの中で
私のブログを見つけてくださり
ありがとうございます!

ここでは私の自己紹介を
させてください。

長くなるかと思いますので
お好きな項目からお読みください。

 

 

7人きょうだいの長女として——露天商の親のもとに生まれた

わたしは北海道札幌市に
7人きょうだいの長女として
産声をあげました。

生まれたときから毛量が多く
母親曰く

熊を産んでしまった

っと

いや、可愛いだろがい!!

 

 

写真は生後100日のときのです

今は母親似と言われることが
多いのですが
生まれたときは父親似だな〜っと笑

 

両親のはなしが出てきたので
ここで少し私の両親について
お話しさせてください。

私の父親は露天商の仕事をしています。
母は専業主婦で
お祭りがある期間は父親と一緒に
お店に立っています。

私母親のことを尊敬しているんです。

毎日9人家族の家事全般をこなし
商売の稼ぎどきは店に出て

パワフルすぎる

母親は140㎝もない小人サイズ
なのにも関わらず
子どもを7人も産み育て

嫁いで実家を出てわかる
母親の有り難み…
2人だけでも家事をこなすのが
大変なのに9人分の家事

本当に頭が上がりません。

あっもちろん父親も尊敬してますよ
ここまで道を外すことなく
育ててもらえて感謝しています。

実際9人を養うって
相当大変だったと思います。

露天商の仕事は
私の記憶がある限りでは
私が3歳くらいから初めているので
30年は経っているのかなって。

小さい頃は父親とお祭りの屋台を
一緒にまわるとお仕事仲間さんから
タダでクレープやわたあめをいただいていたので
(今もありがたいことに時々いただけます)

屋台の商品にお金を払うって
少しもったいないなって思ってしまいます。
(ごめんなさい)

露天商は夏場が稼ぎどきで
我が家は北海道全道のお祭りに
屋台を出していたため
その期間はおばあちゃんの
お家でお留守番。

夏休みは親にどこも連れて行ってもらえず
友達の夏休みの思い出話を
聞くのが少し苦痛でしょうがありませんでした。

でもその代わり
お祭り最終日の翌朝は

余ったクレープの生地や
りんごあめ、チョコバナナが
冷蔵庫いっぱいに敷き詰められ

部屋の片隅には
山になっている大量のわたあめが
待っていたので
わくわくしながら朝を迎えていました。

 

長女としての苦悩

「普通」とはかけ離れた
家庭環境で育った私ですが

長女に生まれた宿命か

「お姉ちゃんだから」っと言う
言葉がデフォルトになっていて

「我慢して」
「妹、弟に譲ってあげて」

親に甘えられるどころか
我慢ばかりしていた子ども時代。

毎日にぎやかで
時に戦場のようだった家の中
ゲームも、テレビも、遊びの順番も
いつもいつも“誰か”のために
譲っていた気がします。

両親が仕事で妹、弟たちの
学校行事に出席できないときは
私や次女が代わりに
学校行事に参加していたり
(運動会や授業参観など)

そうなるとだんだん
友達とも遊べる頻度も
少なくなったりして
一時期は遊びに誘ってもらえなく
なりました。

「お姉ちゃんだから」とか
そう言うのもあるかもですが
妹や弟の学校行事は
母が行けないときには
極力行くようにはしていました。

と言うのも
私のときは誰もいなかった

行事は休むか母が来ないことを覚悟するか
のどちらかだったから。

やっぱり授業参観に親が来ないって
寂しかったんですよね。

だから下の子たちには
同じ思いはしてほしくないなって
勝手に思ってたんです。

妹たちはどう思っているか知りませんが笑
 

私がしてあげたかったのです。
 

7人きょうだいで
面白いな〜っと思ったのが

成人式の前撮りと七五三の
写真を一緒に撮ると言う
なんとも見かけない光景


 

正確には撮影用の振袖選んでるときに
七五三をやらなかった妹が

「いいな〜ドレス着たいな〜」

っとずっと言っていたので
七五三の写真も撮る??っと
母親が笑

あっもちろん成人式の前撮りと
七五三の写真はそれぞれ撮りましたよ笑

 

小学生時代(正解からこぼれ落ちて好きにすがった)

わたしは小さい頃から
目立つのが嫌いで涙もろく
自分の意見も言えない
とても内気な性格だったこともあり
いじめの対象でした。

勉強も運動もダメダメだったのも加わり
それはそれは惨めな学生時代。

声が変だから喋るな
ちびと悪口を言われたり
上靴や給食袋を隠されたり
アニメや漫画も好きだったので
オタクキモいとか

今思うととてもくだらんことで
いじめられてました。

でも当時のわたしにとっては
くだらなくないくらい
本気で傷ついてました。
 

どんどん自分のことが
嫌いになっていって
「早く死にたいな」が口癖になるほど
 

そんなわたしの逃げ場所は
家で絵を描いたり
アクセサリーを作ることでした。

絵もアクセサリーも
幼少期から続けている趣味
 

アクセサリーを作っているときは
無心になることが出来て
絵を描いているときは
妄想に浸れる
 

それに家の中は
悪口を言ってくるクラスメイトもいない
外との世界と遮断できる
安心できる場所
 

今思えば
今もこんなに家が大好きなのは
この出来事があったからかもしれません笑
 

(本当に用事がないと家から出ないのです)

そしてとある授業がきっかけで
わたしは世の中の
正解からこぼれ落ちてしまったんだと
感じた出来事がありました。
 

それは「親の職業を調べよう」と言う授業
その名の通り親の職業を調べ

発表すると言う
「社会にはいろんな職業があるよ」
って感じの内容だと記憶しているのですが…………

なんとわたしのクラス
わたし以外みんな親御さん
お勤めになられているのです!!!
 

「僕のお父さんは〇〇電気に勤めています」
「私のお母さんは〇〇病院に勤めています」
 

…………勤める?????
 

今思えばあまり前じゃん!って
思いますよね笑
でも当時のわたしは
驚きと言うか
世の中の正解からこぼれ落ちて
しまった感覚になったのです。
 

なんたって実家は露天商
いとこは出張スタイルのお寿司屋さん
叔母はスナックのママ

身近な大人たちは
ほぼ全員自分で仕事を
作り出しているのですから

小学生のわたしは
そんな大人たちを見て
「仕事は自分でつくるもの」
っと思っていたんですよね

なので
ケーキ屋さんをやるには
あの辺で箱を借りようかなとか
食材はどこから仕入れたらいいかなとか
そんなことばかり考えていたのです。
 

中学生時代(自我の覚醒と置き所の揺れ)

中学生になって
絵を描くのが好きなのもあり
美術部に入りました。

そしてわたしのオタクが
加速しました笑

小学生の頃に引き続き
いじめられる日々は変わりませんでした。

「あの子小学生の頃ね…」
なんていじめられっ子に
小学生の頃の出来事を言いふらされたり
 

些細なことで笑われたり
無視されたり
時には仲間外れにされたりしていました。

人間関係も、正直ドロドロ。
誰が本当の味方で誰が本当の敵なのか
そんなことばかりを考えていた気がします。
 

「誰を信じたらいいの?」
「私はどこにいたらいいの?」
 

自分の居場所がどこにもないような
そんな不安

少しずつ
自分に自信が持てなくなっていきました。

いじめられていたから
自分を否定されているような気がして
 

「私ってダメなんだ」
「私なんていないほうがいいんじゃないか」って。
 

その頃は
心を感じるのが苦しかった。

だから何も感じないように
思考を止めることでしか
日常を乗り越えられなかった

まるで感情のスイッチを
切ってしまったみたいに。
 

でもそんな時に
少しずつ心を動かしてくれたのが
「アニメ」でした。

わたしは
『NARUTO』が大好きで
毎週欠かさずアニメもマンガも
チェックしていて

日向ネジが喋った瞬間
落ち着いた低音ボイスに
静かに響くような温度

「なにこのお声…好き!!!!!」っと
一瞬で虜に

そう
“一目惚れ”ならぬ“一耳惚れ”
をしたのです!!

気づいたら名前を調べてた
遠近孝一さん

そこから
わたしは声フェチなのかもしれないと感じ
声優さんの名前をチェックするように
なったのは言うまでもない笑

あっ
漫画ではネジ好きでは
なかったんですけどね(失礼)
遠近孝一さんのおかげで
ネジが一番好きな
キャラクターとなりました🤍

エンディングロールで
声優さんの名前を見るようになって
「あ、このアニメとあのアニメ
同じ声優さんだ!」
って発見するのが楽しくて

だんだんと
声優さんという職業に
惹かれていきました。

自分ではない別の誰かになれる
そんな感覚に憧れもありました。

自分じゃない誰かになれるなら
少しだけ前を向ける気がしたんです
生きてても良いような感覚があったのです。

そしてある日
仲良しの友達が言ってくれたんです。

「りっぴー、声かわいいから声優になれば?」って。

ずっとコンプレックスだった「声」を
“可愛い”って言ってもらえて

その言葉が本当にうれしくて
心の奥に小さな夢の芽が芽生えました。

そんなふうに声優さんに
興味を持ち始めたわたしが
次に出会ったのが
水樹奈々さんでした。

きっかけは
たまたま本屋さんで手に取った声優雑誌
その中で奈々さんのLIVE特集が組まれていて

「声優さんって、歌も歌うんだ…!」

と初めて知ったんです
ちょっと気になってその雑誌を購入

どんな曲を歌っているのかも気になったので
レンタルショップでアルバムを借りてみたら
 

もう、衝撃。
 

想像をはるかに超える歌のうまさに
鳥肌が立って
パワフルなのに繊細で
真っ直ぐ届いてくるような歌声

一曲一曲に込められた想いや世界観に
どんどん引き込まれて
気づいたら何度も繰り返し聴いていました。
 

そこからはもう
すっかり奈々さんのファンに

LIVE映像を観たり、雑誌を買ったり
ラジオを聴いたり、出演作を追いかけたり…
 

いつの間にか
私の中で“憧れ”は“夢”に
変わっていったのかもしれません。
 

「声優になりたい」
そう、心から思うようになっていました。
 

中学を卒業したら
すぐにでも声優の専門学校に
行きたいと思っていました。

そのことを親に打ち明けるも
親からの言葉は
 

「専門学校は高校卒業してからね」
 

それを聞いたとき
少しだけがっかりしたのを覚えています。

それでも諦めたくなかったから
私は演劇部のある高校を
受験することにしました。

“声”の表現を学ぶために
まずは“演じる”ことから。

遠回りに見えるかもしれないけど
当時のわたしにはそれが
“夢へ続く道”だったんです。

高校生時代(夢を描いては諦めて)

高校は制服がかわいかったのと
演劇部があるという理由で選びました。

「声優になる」という夢に少しでも近づくために
まずは“演じる”ことを学びたかった。
 

そして高校では
いじめはまったくなくなりました。

やっと普通の学生生活が
できるようになった気がして
ほっとしたのを覚えています。
 

念願だった演劇部にも入部。
でもそこは思っていたよりも
ずっと厳しい場所でした。

まるで体育会系のような上下関係。

「先輩、自分がやります!」

が当たり前で
常にピリッとした空気が流れていて

後輩は先輩の仕事(掃除や雑務)
をとってなんぼ

正直、苦しかったです。

でも今思えば
あの厳しい環境で鍛えられたおかげで
社会に出てからどんな職場でも
やっていける力がついたと思っています。

理不尽も、緊張も、空気を読むことも、
全部そこで経験していたから。

あのときは
「なんでここまで…」と
思う日もあったけれど

今ではちゃんと感謝の気持ちがあります
あの演劇部で過ごした時間は
私の土台になってくれました。
 

そんな中で
私は初めての彼氏ができました。
 

甘い青春時代を送るはずが
苦い、いやとてつもなく苦い
青春時代となりました。
 

なんたって彼は
ガチガチの束縛男だったのですから。
 

どれくらいのもんか
いくつか紹介しますね!!!!
 

じゃ、いくよ〜!!!!!
 

男子と喋るな
男子の視界に入るな
男子との距離は5m以上離れろ
男子と連絡とるな
白い洋服着るな
半袖着るな
生地の薄い服は着るな
スカート履くな
露出の多い服着るな
必ずキャミを着ろ
必ずスパッツを履け
自宅以外のトイレ禁止
自宅以外の着替え禁止
目立つな
勝手に髪を切るな
メイク禁止
SNS禁止
写真写るの禁止
動画写るの禁止
職場を勝手に決めるな

外出時は誰とどこに
どんな服装で行くのかを
必ず連絡する
そして彼が決めた門限までに
帰宅する

(門限って親が決めるものでは???)

ちなみに
この外出は彼がOKしないと
行けませんでした

(本当アホ!!!!○ね!!!!)
↑りっぴーお口が悪くてよ
 

もちろん制服はスカートなのですが
「制服スカートだから学校やめて」
と言う理不尽極まりないことを言われたり

数えたらキリがありません。
出せる範囲で出してみたのですが
よく耐えたよわたし
 

あっ!もっと聴いてみたい方が
いらっしゃいましたらウエルカム!!
とっておき教えちゃいます⭐︎笑
 

どうしよう書いてて
だんだんと腹が立ってきました。
 

当時のわたしは
これは「おかしい」と思いながらも逆らえず
また「これが本当の愛なのかもしれない」と
錯覚していたのです。
 

だんだんと
自分は人として存在しないもので
所有物なんだっと
 

自分の人生なのに
自分の自由がどこにもない
 

色々ある中で
わたしが今でも後悔していることが
あります。

それは

最後の大会での役を降板したこと
 

毎年秋ごろに演劇部の大会があり
その舞台でわたしは
大切な役を任されていました。

だけど彼がそのことに
強く反対してきたんです。

演劇部の顧問の先生に思い切って相談し
先生は、こう言ってくれました。
 

「里歩は一番演技が自然だし、声も通る。
本音を言えば降りてほしくないな。」
 

あの言葉は今でも胸に残っています
でも、私はその役を降りました。

どうしようもなく彼が怖かったからです。

今でも――あの時
降りなければよかったって
後悔しています。

自分の人生なのに
誰かの機嫌や不安を優先して
自分の希望を手放してしまった。
 

同じ頃
家庭の事情も見えてくるようになって

「声優の専門学校は、無理だな」

と思うようになりました。

なんたって
わたしは7人きょうだいの長女
まだまだお金がかかります。

自分の立場――
いろんな“現実”がのしかかってきて。
 

夢を追うより「働かなくちゃ」って。
卒業後の進路は仕事しかないって。
 

いつの間にか私は

“自分の人生なのに、他人を操縦席に乗せる癖”

がついてしまっていました。
 

夢も、本音も
優先順位の一番にはなれなかった。
 

想像の如く
声優になる夢も儚く散ります。
 

社会人時代(19歳の私が諦めた夢)

高校3年生の夏
就職活動をするも
なかなか進まず…

というのも束縛彼氏の
「あれダメ」「これダメ」という
言葉に相変わらずしばられ
選択肢がほぼない状況に。
 

彼は漫画の専門学校に
自分のやりたいことを追いかけていた

その姿を見るたびに
心の奥がざわざわした
 

「私はなんで、彼の“いい”しか選べないんだろう」
「なんで自分の“やりたい”は飲み込むしかないんだろう」
 

そんな気持ちをずっと抱えていた。

“声優になりたい”

という夢を諦めきれずにいて。

「ある程度働いてお金を貯めたら、専門学校に通おう」

そう思い住み込みで働ける
温泉旅館などを中心に面接を受けていました。

でも…これも
彼氏の猛反対で叶わず
夢への一歩を踏み出せずにいました。
 

高校卒業も目の前で
「これからどうしよう…」と
就職先が見つからないまま
だったのですが
叔母の知り合いの
デザイン事務所にお世話になることに。

その事務所は
社長1人と女性従業員が2人の
とても小さなデザイン会社

40年以上続く叔母のスナックグループ
12店舗のキャストさんの
名刺やメニューPOPなどを
一括で手がけている場所。

私は主にキャストさんの
名刺作りを担当していました。
 

正直なところ
最初はあまり興味も持てず
毎日モヤモヤを抱えながら働いていました。

ただただ
淡々とこなす毎日のなかで
自分の心だけがどこか置き去りだった
 

けれど今思うと
あの環境は本当にありがたくて
出会った人たちからたくさんの
刺激をもらった場所でもありました。
 

そんな日々のなかでも
私は夜間の声優学校の説明会に
こっそり行ってみたり
ワークショップに参加してみたり

ずっと諦めきれなかった
“声優になりたい”という夢を
ひっそりと抱えていたのですが
やはりどうしても彼には言えなかった。

どんな顔されるか
どんな言葉でしばられるか
想像するだけで怖くて。
 

別れちゃえばいい話なんですけどね
そのときのわたしは
どっぷり共依存していたので
付き合ったまま
自分の夢を叶えたいって
ずっと思っていたのです。
 

嘘を抱いて毎日を送っていたせいか
どんどん心が前を向けなくなって
その職場を辞めることに。
 

今思えばうつ病はこの時から
始まってたのかもしれないです。
 

職場を辞めると同時に
声優になる夢には自分で線を引いた

心のどこかでずっと憧れていた舞台
それを手放した日は
静かに何かが終わった気がした。
 

あの日開けた背徳の扉

職場を辞めてしばらくしたある日
入院中の彼から突然電話がきた

「話したいことがある」

その言葉、わたしは知ってる。
わたしが怒るってわかってるときに使う
前置きの言葉

案の定、その予感は当たっていた
 

「好きな人ができた」
 

……え?
 

え????!!!!
 

えぇぇぇえええええぇぇえ????!
 

最初に出た感情
それは「悲しみ」でも「ショック」でもなかった
この目でしっかりと
宇宙人を見たかような衝撃レベル

そのまま電話で別れ話をし
すぐさま友達に電話
 

「ねぇ!!!あいつ浮気した!!!!!」
 

友達は驚きながも
「いや、そのテンションは違う」っと
冷静なツッコミ

たしかにそれもそう
普通なら驚くとか泣くとか凹むとか
するんだろうに

でも私の中には
怒りも悲しみもどこにもなかった。
 

翌日、病院に乗り込んだ。
「誰なの?」って問い詰めて
相手を見にいった。

彼女を見た瞬間思わず

「……あぁ〜、好きそう」

っと納得

その後、淡々と別れ話
わたし的にはあの電話で
もうお別れしたつもりだったのですが

彼は「別れたくない」の一点張り

浮気したクズがそれ言う価値ある?
っと思いながら感情もなく
彼が納得するまで別れ話が続いた。
 

陽が傾く頃に話は終わった。
 

それは
私の自由が戻ってきた瞬間だった。
 

帰りのバスに揺られながら

「なんでわたしはあんなに自分の夢とか
好きなこと我慢してまで
あの人を選んでたんだろう?」
 

 
共依存。
 

たぶんそれだった
でもその日やっと目が覚めた
 

あまりに遅い目覚めである。
 

なのに、3ヶ月後。

体調も良くなり
わたしはカラオケ店でバイトを始めたが
 

再びその人に追いかけられるような
日々に戻るのである
 

毎日のように職場や家に来られて
話をするも通じつ
警察に行くも対応してもらえず
息が詰まるような日々

逃げ道がなくなって
仕方なくよりを戻すことに

だけどもう本当の意味で
「好き」ではなかった
「好き」なフリして
また自分の心を殺した。

しばらくして、カラオケ店は辞めた。
 

その後
派遣でコールセンターの仕事を始めた。

選んだ理由としては
服装や髪型が自由で部外者は入れない
それに電話の着信音がとっても苦手で
これ克服しないと今後生きづらいと
感じたから。

元彼から着信履歴が埋まるくらいの連続電話。
昼寝から起きたらびっくり
出るまで電話が鳴るので100件越えなんて
当たり前

なんならメールに切り替わったら
家に向かっているサイン

そのトラウマで
携帯の音が鳴るだけでビクッとしてた
まぁ、慣れることはなかったけど

表面的には落ち着いた生活。
だけど心の奥では何かがずっとくすぶっていた。

そんな時だった。
「浮気したやつの言うことなんて、もう聞きたくない」
そんな反抗心みたいなものが
私の中の“好き”を呼び覚ました。

 

旦那さんとの出会い

 

ロリィタファッション

 

ある本との出会い

 

ハンドメイド作家としてスタート

 

完璧主義ゆえ陥った罠

 

秘密喜地